まぎかる゜火葬場

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感想『わんだふるぷりきゅあ!ざ・むーびー!』新たな位置付けのプリキュア映画(ジャルジャルは何もわからない)

▼この記事で書いてること▼

・ネタバレなので見てない人は回れ右
・ムジナって結局タヌちゃんとはどういう関係なん?
・そもそもタヌちゃんってどうなったん?
ジャルジャルどっから湧いて出てきた?
・最後の最後で出てきたタヌキってタヌちゃん本人なん?
・なんで「ひろプリ」と「まほプリ」だったん?
・兎組のアレめっちゃ爆速でわけもわからず消化されたけど何なん?
・そもそも『わんだふるぷりきゅあ!』って何や?

 

▼目次(タップで展開)▼

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観終わりました。急いで感想を書かなければ…。当たり前ですがネタバレがあるので、まだ観てない人は要注意………と言っても公式が大事な部分を超速でネタバレかましてたみたいなので、今更かもしれないが。

あと感想記事ということにしてますが、この映画、あまりにも明言されている部分が少なすぎるので、どっちかというと考察メインです。スクロールすると何となくわかると思うんですが、アホみたいに長い記事(いつも長いけど、それより長い)なので冒頭に目次を用意してます。全部読むのは無理。各項目の最後だけ読もう。

 

 

観る前から情報量が大分アレだった本作。初報の「素敵なお友達の出番って…言いました!?」の時点で、わんぷり単独映画なのに、わんぷりどころじゃねえだろ!みたいな気分になったし、本当に何かしゃしゃり出てきたの凄かったんですが*1、それよりポスタービジュアルだと戦士の一員ではないにも関わらずニヒルな表情で立っている大福、TV本編での自身の力のなさに苦悩する兎山の描写、その他諸々から兎組には何かあるんじゃないかとは最初から睨んでいた。キュアウィング達のおかげで、まず「男はプリキュアになれないはず」という負のスタートラインから始めなくて良くなったのは本当に良い時代になったと思う。

 

そして新たに発表された入場者プレゼント第2弾において、わんぷり組の絵柄を何故かシークレット扱いにしてる時点で疑惑が確信に変わる。これは何か仕掛けてくるぞと。

公開日翌日に観ることになる都合上、そのままSNSをすると火傷を負うのは確実であり、この時点で映画公開当日からSNS断ちをキメることを決断した。本当にそれで正解だったようだが、まさか公式自ら火をさっさか吹いてくるとは思わないじゃん。

通知で「大福&悟の」の文字が見えた瞬間、眼球をすごい勢いで裏返して映画公式アカウントの通知を消しに行きましたからね。公開当日(※平日)の正午は急ぎすぎだろ!!!!!本当に何も見てないです。

 

というわけで、我が尊敬する脚本家・加藤陽一による初のプリキュアが楽しみでありながら、そもそも70分しかないわんぷりの単独映画で他2作品もわりと絡んでるっぽいの処理しきれないだろとか(それはもう今は亡き3世代AS映画なのよ…)、兎組でそんな匂わせをしといて別に映画のストーリー自体は兎組にフォーカスしているわけではないっぽいという見えまくっている地雷にすごい不安要素を抱えつつ、そもそも動物主題の作品の映画が何故かゲーム舞台なことに噛み合わせの悪さの懸念を感じて観に行ったのだが…。

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◆想像以上にわんぷりの映画だった

わんぷりの主題とは何か。モチーフが動物であることはわかりやすいが、それはあくまで表層的なモチーフであって、物語の内面的な主題とは異なる概念だ。

さまざまな解釈はあるだろうが、端的に言ってしまえば「言葉によるコミュニケーションができなかった存在が、人間と同じ言葉を使えるようになったらどうなるか?」を基盤にしているように俺は思う。今回の映画ではあまり関係していないが、それを突き詰めながら「対動物だけではない、人間同士のコミュニケーションの難しさ」も織り込んでいる節も感じられる(まゆの旧友や、兎山がいろはに向ける感情の葛藤がわかりやすい)

 

ペットが喋られるようになったことで「わーい!たーのしー!」は描いているのだが、それと同時に飼い主である人間がペットに対して行う一方的で片道のコミュニケーションが通用しなくなっており、犬組のように明確にケンカをするようにもなってしまったし、猫組のように相手を縛る主従関係が逆転してしまうような弊害も描かれた。

そしてTV本編ではさらに踏み込んで、かつての人間の活動がきっかけで滅んだ生物(ニホンオオカミ)が人間にわかる言語で攻撃を仕掛けてきた場合、人間は動物と真の対話を行うことができるのか、という物凄くセンシティブで難しい話が進行中だ。あくまでメインターゲットが子供である本作で行える表現には限りがあり、その制限の中で果たしてこの命題に納得の行く答えを出せるのか、正直なところ俺だったら匙を投げるのだが、行く末に関しては興味深い。

 

話が脱線する前に映画の話に戻したいのだが、この映画のTV本編との共通点はいくつか存在している。

まずわかりやすいのは、ゲームという一見すると噛み合わせの悪い意外な舞台でありながら、ちゃんと人と動物の関係性の話であるという点。TV本編通り、ペットであるこむぎとユキが飼い主に向ける感情と、飼い主といることで変わった世界の話が中心となっている。

これはFall Guysタヌキングダムに登場する一連の事象の黒幕であるムジナと、ゲーム開発者であるナツキの関係性にも当てはまる。タヌキの表象など動物要素はプリキュアでよくありそうなので、当初はこれが果たしてわんぷりの主題に関係しているものなのかはイマイチわからないところも正直あったが、ムジナのキャラクター紹介の時点でひょっとすると…というのはあったし、実際その通りだった。そういうレベルで関係があるとは思ってなかったが…。

 

また、ムジナの正体が恐らく既に死した動物の魂がルーツであるという点も重要。明言はされていないものの、野生のタヌキの平均寿命(鑑賞後すぐ調べた)、最後の成仏させるかのような演出やプリキュア達の空気感から、そこは確実*2という前提で話をまず進めたい。

ムジナのルーツ(アバターという皮ではなく中身)に関しては劇中でほぼ明言しておらず、この記事を書く上でも頭を抱えさせている要素である。一旦、俺が自然と考える方向性で考えないと話が進まないので、タヌちゃんは既に亡くなっているという解釈を取らない場合(←これもあり得ないわけではない)の話は後で行う。

 

死した動物が何らかの手段で人間側に訴えかけてくるという話………どこか既視感を覚えないだろうか?そう、先ほど書いたばかりだがTV本編におけるオオカミと方向性は同じなのだ。そしてその暴走した何かを「鎮める」「供養する」話を映画で行っていたのは、まさしくアニマルタウンの祠や鏡石の伝説との類似性が感じられる。

唯一異なる点として、死した動物が人間に向けるのは愛情なのか憎悪なのかという部分があるが、映画でTV本編と同じ命題と解決を図ってしまうとオオカミの話も終わってはしまうため、ここは意図的に仕掛けられたコントラストと考えるべきか。ただ、近年のプリキュアの映画はTV本編の結末と関連付けた物にすることが多く、またTV本編の主題を補完する趣が非常に強いため、これはTV本編の結末を考える上での重要な材料になる可能性は否定できない。

 

 

そして動物をモチーフにした作品としては噛み合わせの悪さが感じられるゲームという舞台、どちらかというとTV本編の第1話のようにこむぎを飼い主から引き離すことで「孤独」と「愛情」を再び描くギミックとして使われているだけのように見受けられるが、TV本編における鏡石が起こした「異なる存在同士の対話」を擬似的に再現できる環境として用意されている節もあるのではないだろうか。

 

実際のところゲーム内に入り込んだ存在が喋れるようになるプログラムはナツキとしては全く想定していないのだろうが、ゲーム内のムジナは喋れるようになっているし、同時に現実世界では成し得なかった大福の意思表示を実現させている。でも中村悠一の声帯が出てくることはないだろ。

起きていること自体はまさに奇跡に近いのだが………そもそもその現象を辿ればムジナのアバターの自立にあるし、そのムジナ(タヌちゃん)の魂と思われる存在がナツキの作ったゲーム、ひいてはアバターに入り込んだ原因はなんなんだろう?

というか明らかに不自然な描写がいくつかあって、実質ムジナの眷属であったジャルジャルがプログラムの域を超えて現実世界に飛び出した際に何故かタマゴの形状になっていたことや、ムジナ自身が同じことを行った場合はタヌキではなくまるでオオカミのような姿に変貌していたことが気になっている。

 

わんぷりにおけるタマゴと言えば………そう、ガルガルのタマゴだろう。そもそも神出鬼没のアレはガオウがニコアニマル達を一斉ガルガル化した際に、ニコが応急処置としてアニマル達をタマゴに包み込んだ結果、あのような形になったという経緯があり、即ちニコとガオウの力が混ざった結果の形態なのだ。

もしかしてなんですけど………ジャルジャルの現実世界への顕現も何か色々混ざってませんかこれ…?いやだってタヌキでタマゴである意味ってないですよね?特に意味はないのか?たまごっちっぽいし。

 

ムジナが現実世界に顕現した時のオオカミのような姿も、ガオウの力と何か共鳴してるとかそんなんじゃない?考えすぎかどうかイマイチ踏み切れない感覚がある…。同じイヌ科なので実際のタヌキもデフォルメしなければ、あんな感じになるのかなぁ…と自分の考えを否定しようとしたんですけど、実際のタヌキの写真をどう調べてもアレにはならないんですよね…よくわからん…。ただ単に暴走した結果が禍々しいアレになるってだけなら、タヌキとわかるような形状にしない意味がわからないし…。

 

どっちにしろ、ゲーム世界から現実世界への顕現には何かしらのファンタジーが介入していないと説明が付かないことが多い。逆にジャルジャルプリキュア達に対して行った現実世界からゲーム世界への拉致、そしてゲーム世界内でプリキュアの姿になれることに関してはナツキ自身が「こんなプログラムしていない」と発言していることから、これもプログラム外の要素が由来であるのは確実なんだろうか。

…なんというか、ガオウが復活したのも含めて鏡石が関与してたりしません?こむユキ含めて動物の願いをアトランダムに叶えている感じがあり、勝手に意思を持ち始めたムジナのルーツもそこにあるとか…。いや鏡石についてわかってることが少なすぎて、現段階だとわかんないけどさ。まほプリ映画に登場するクマタのルーツがデウスマストにあるという裏設定の前例もあったので、この辺が明かされていればハッキリするのだが…。

 

 

いや待て………そもそもムジナは本当にタヌちゃんの魂がルーツなのか?そう、最後の最後で登場したタヌちゃんそっくりの個体、アレは普通にタヌちゃん本人でありムジナは別個体説である。長々と書いてきたこと全てをちゃぶ台返しすることになるのだが…。

 

ナツキがタヌキングダムを制作したきっかけは「寂しい」から深堀りして「会えなくなったタヌちゃんとの擬似的な邂逅、思い出を再現できる場作り」である。最初に作ったタヌちゃんモチーフの試作アバターはタヌキングダム用だということは明言されており、タヌキへの情念が込められたゲームであることは確かだ。

その情念(プログラムひいては高度なAI)が無意識の内に勝手に動き始めるムジナとなり、元のタヌちゃんとは全く無関係のところで騒動が起こった…という解釈も理屈上はできなくもない。

 

ただ、それにしてはプログラムが現実世界に飛び出すリアリティラインを崩すための理由付けが不十分ではあるし、ナツキ自身にそこを崩してしまう程の大きすぎる悔恨があるようには全く描かれていない。映画を鑑賞した人達は恐らく「ナツキって子、怪しそうなキービジュだったけど普通に一方的に巻き込まれただけやん…」と皆が思っただろうし(主語)、ナツキ自身はムジナ=タヌちゃんその物という前提でムジナを見ていた。

何よりバグ空間におけるムジナがこむぎに問うたのは「人と動物間の寿命差」に関する呪縛であり、これは「人→動物」ではなく「動物→人」が抱える壁として、動物側であるこむぎが向き合うと決めた軸である。

もちろんナツキが自身の生み出した悔恨の象徴(=ムジナ)と向き合うという解釈もそれはそれで間違ってはいないと思うのだが*3、浄化後の成仏描写も合わせるとムジナという存在はナツキ側の悔恨というよりはタヌちゃん側の魂に引っ張られていると解釈する方が個人的には腑に落ちる。

 

あるいはアバターはゲームパート最後に登場するバグ空間、ゲームの領域外にデータとして意図せず放置されてしまった存在であり(忙しそうなナツキを見るとあり得る話である)、ナツキに会えなくなったタヌちゃんと呼応したと考えることもできるか。こむぎのバグ空間からの脱出劇(=孤独への反抗)とも重ねられる。

それを踏まえた上であれば、アバターを作ったのがナツキなので、空と思われていたアバター自身にナツキの思いを代行で成し遂げようとする意志がタヌちゃんの存在を通して芽生えたという解釈もできるかもしれない。

ムジナは人と動物の間にある絆自体は否定していないどころか、それは絶対にあるという「執着」が強いという描かれ方だったと思うので、最終的にはゲームの世界で生きる自分の使命を遂行し、それをナツキに見せることで「タヌちゃんとの絆」を確認させたかった………というところはどの説でも共通してそうだ。

ナツキ自身はタヌキングダムの広がりを前向きに…そして集中的に進めている様子は一貫しており、実のところタヌちゃんへの「執着」は全く描かれてない。残酷な話だが、動物が人間に対して抱える純粋な願い(後で深堀りするぞ!)との対比で、人間の価値観として過ぎたこと*4は諦めるという描き方なのかもしれない。それでも僅かにある希望や願いを実現するためにナツキはタヌキングダムを作り上げたのだから、その事実が裏付けになるだろう。

 

仮にエンディングラストのタヌキがタヌちゃん本人なら鑑賞者に見せるナツキの表情はもっと別にあるだろうとか、その他にも否定材料は色々あるのだが、この辺が曖昧すぎて疑問が映画の読了感を上塗りしてしまっているのは良くないかなとは感じた。

逆に言えば「動物の死」の直接的な描写から避け、子供にはかつての友達である動物と再会できた希望を、大人にはまた別の解釈で察して欲しいというアプローチを行えているとも言える。でもドキプリの映画は動物の直接的な死の描写あったよ………ドキプリみたいな異常な作品をモデルケースにするなって?はい…。

 

書いてて気付いたんですけど、タヌキングダムでナツキが夢見る世界、そしてムジナが強引に実現させようとする人と動物が共存できる理想郷って、これもしかしてニコガーデンと対比もしくは重ねている…?

ニコガーデンが人間に干渉されていない世界として描かれている一方、いろは達の介入で人と動物の繋がりができているという変化………そしてタヌキングダムという世界は擬似的にタヌキとプレイヤーである人間達が交流して繋がっているかのような世界なんですよね。

映画のプロットを練り始める時期的には、わんぷりという作品の目標、そしてニコガーデンのコア設定をベースにしている可能性は全然あるので、もしかしたらニコガーデンという人と動物の本来はありえない関係性を実現させる象徴を、タヌキングダムというゲーム世界で概念的な主題再現を行っているという考えもよぎるぜ…(本当か?)

 

とにかく色々要素を並べて掘ってみると、ちゃんと『わんだふるぷりきゅあ!』の映画なんですよねこれ…。脱線に脱線を重ねて見出しに戻った。表面だけだと凄えわかり辛いし、曖昧な部分も多いからイマイチ絶対そうだ!と言い切れない感じなのが非常に惜しいと思います…。既に長いんだけど、また後で深堀りします。深堀りの嵐の記事です。

 

 

◆客演バランス

一応、わんぷりの単独映画という体なのに何故かMAHOガールズとヒーローガールズが出てくることが早々に明かされていた本作。現行作の単独映画に過去作の要素が介入してくるのは、もはや近年では形を変えつつ恒例化しており、いつも通りと言えばいつも通りではあるが…。デパプリは短編込みだと完全な単独映画ではなかったりするので、マジでプリアラ以降だと完全な単独映画だったのスタプリだけだな…。

 

ひろプリは…まぁ納得できる。記憶に新しい前作である以前に、同じ時期に公開された映画が単独映画ではなく表面上はオールスターズ映画だったので*5、その辺の補完も兼ねて供給があるのは率直に喜ばしい。

それにひろプリはバカスカ敵を殴ってるイメージが強いが、それと同じぐらい戦闘外における日常的なプリキュアの力の使い方を表現していたし、敵対勢力との対話も積極的に試みていた作品。実はわんぷりの独特な作風の前振りとも言える要素が多かったりする。頑なに対話してくれなかった知識の宮殿は知らないです。

なので、わんぷり組とムジナのやり取りをゲーム越しに俯瞰する立ち位置のゲストとしては良い感じのクッションになれるし、ついでに休日は虹ヶ丘邸に集まってゲームしてる絵面も自然だ。少年のアバターをノリノリで作っちゃう成人女性かわいいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いい加減にせい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!MAHO!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

何回目だよ!!!!!!!!!!?????????????他所の作品に出るの!!!!!!!!!!!!

 

信じられないけど、この子達まだ第2期も控えてるからね???????????本当にうちの子達が再びすいません…みたいな暴れん坊の子供を連れ戻す親みたいな気持ちになるよ!!!!!!!!??????いやお前まほプリの何なんだよって話だけど、気持ちとしてはそういう感じだからね???????????

オールスター文脈の作品で出てくるのは仕方ないとして(?)、後輩の単独映画に出てくるの別に1回目ではないという…。その1の方が動物に近いんだぞ!!!!!!!わかってんのか!!!!!!!?????あとMAHOは世界観的に他の作品に客演すること自体がMAHOという作品テーマの破壊になっちゃうから勘弁して欲しいんだけど、まぁもうそれは奇跡の魔法(春のAS映画)で早々にアレになってる今更すぎる部分だから置いとくけどさ!!!!!*6

 

公開前のスタッフインタビューだと、わんぷりで行っていることと同じく「願い」から対話が出来るようになった象徴、そして動物を飼えない家庭への補完として、ぬいぐるみのモフルンがいるMAHOがピックアップされたということが明言されており(あくまで数ある理由の中の一つ)、それ自体は間違ってないんだろうが………俺もゲスト出演が発表された時点で理由を必死に考えるとそこに行き着いたし………ただ絶対2期合わせの販促も兼ねてるだろこれ!!!!!!!単独映画の過去作ゲストの前例的にもビジネスすぎる匂いが隠せてないモフ!!!!!!!!!!!!*7

 

いやでもね………これ別に子供は置いてけぼりになりやすいってのはないはずなんですよ。ちゃんとデータとして調査したとかじゃなくて、ただの実体験からの主観なんですけど、プリキュア関連イベントに行くと親子連れは当たり前のように多く見かけるじゃないですか。で、親に持たされたタブレットで女児達が見てる過去作はなんだと思います?どういうわけか俺が見たN数で言うと全部まほプリなんですよ。いや話を盛ってるとかじゃなくて、本当にそうなの…。

某大投票でもモフルンが部門1位になった実際のデータも鑑みると、そういう方面での訴求力が想像以上に高い作品である可能性があり、それは徹底的に子供の目線を考えた作品作りを行っていたという過去のインタビューからも実感として俺は感じる。なので、わりとヒーローガールズに加えてチョイスされる理由付けとしては…わからないでもない。

 

それはそうと、かの時代(スタプリ映画が断ち切るまで行われていた断続的すぎるMAHO供給)のようにここまでの優遇が再び行われてしまうと、逆に警戒心や謎の申し訳なさ、複雑な気持ちがドロドロに混じっておかしくなってしまう!!!!!!!!!!!スマプリの陰湿ピエロが怠け玉ぶつけてきてない???????大丈夫?????これ???????????????

そんなこんなでどういう気持ちで映画を観に行けば良いかわからない気持ちの大部分がMAHOガールズを起因にした物であり、そもそもわんぷりの映画なのに何でその気持ちをわんぷりに据えられないんだという感じで、劇場に足を運んだわけです…。

 

 

蓋を開けてみると、ヒーローガールズよりは干渉していたものの、物語の根幹には入り込みすぎない且つ内面的な主題には入り込む感じの、わりとちょうどいいバランスの出番ではあった。あくまで多く存在するタヌキングダムのプレイヤーの中の一組という描かれ方。MAHOガールズがこういう電子ゲームで遊ぶ光景とイメージが全くないせいで滅茶苦茶シュールな感じはあるが…。あと公園の公共Wi-Fiとかでオンラインマルチ遊んでそうなの普通に他のプレイヤーに迷惑かかるからやめようね!!!!!!!さすがプリキュアはタフモフ。

 

何か色々言ったけど、めちゃくちゃ久々であろうMAHOガールズ全員揃っての日常描写に、込み上げる物は確実に否定できなかった………。動いてる…4人が揃ってワチャワチャしてる………。はーちゃんだけは昨年のFで同様の活躍や描写はあったものの普通にそれどころじゃない状況だったので、フルメンバーでMAHO本編の延長線上のようなシーンを見せられるのは本当に久々なのだ…。

まるで間もなく始まる第2期の予行演習…そう「プレMIRAI DAYS」のような趣があり、第2期が発表される前に散々見まくった夢、熱にうなされるような作品への熱情と苦しみ、内藤Pがオフィシャルコンプリートブックの奥付にイースターエッグのように仕込んだ続編の「願い」に対する憧憬と拭い切れなかった諦念………それら全てが「奇跡」に繋がる過程を噛み締め、実感を得ることができた。オタクの早口で喋ってます。あとリコがめっちゃ可愛かった…お前そんな可愛かったっけ…可愛かったな…そうだよな………ハキハキ動くお前にわりと長めに触れてなかったせいで忘れてたかもしれん………。

MAHOの過剰供給に対する複雑な気持ちが晴れるわけではない。だが、現実として新たに動くMAHOガールズを見て、湧いた気持ちまでは否定できない…。クソ………クソがよ………めんどくせえなコイツ………。

 

このままだとMAHO2期の話で何万字行くので脱線しないように話を変えると、今回の映画に出演するMAHOガールズの見所はやはりモフルン本人がタヌキングダムに入るシーンだろう。

4人全員でこむぎ達を助けに行くぜ!とラパパしたものの、実際にゲーム内に入れたのはモフルンだけ。全員分の3Dモデルを新たに作る余裕がなかっただけかもしれないが、便利な魔法を行使するシーンと言っても起こせる現象の制約がわりと強いのはMAHO本編の設定通りである。

 

MAHO本編における一般魔法は世界観的としては大気中にあるエネルギー(恐らく元素的な物が近いのかも)に「お願い」して、目的の現象に向かう形で手伝ってもらうというイメージらしく、世界の理を歪めるレベルの超常現象はこの方法で引き起こせる事象の範疇ではないという位置付け。即ち「ルール」が存在するのだ。

若干MAHO本編のネタバレに踏み込むが、世界のルーツに関する隠された事実を抱えた当初のはーちゃんによる魔法や、魔法のアンチテーゼ的に登場するムホウ(ネーミングがわかりやすすぎ!)、そのムホウを魔法の形態で再現したドクロクシー達の「闇の魔法」が、ルールから外れたような超常現象を引き起こせるのも大体そんな感じである。

MAHO本編中で起きた印象的なエピソードを例に挙げるのであれば、デウスマストの眷属の1人であるオルーバが色々あって闇の魔法を行使した結果、MAHOガールズが幼児化するという通常の魔法では引き起こせない現象が起きた。これは本来はルール外ということなのかもしれない。

 

………あれ?まほプリの話もしかして長い?必要な説明だから許して…。

話を戻すとラパパでモフルンしかゲーム内に行けなかったのは、つまり4人全員がゲーム内に入るという超常現象に至る材料が足りなかったということだろう。ルールの範疇で魔法エネルギーはそこまでできませんよと。

逆にじゃあ何でモフルンだけ一方的に行けたのかという話になると思うが、これはモフルンのアバターという材料が既にゲーム内にあったからと考えられる。あとはムジナのアバターが勝手に意思を持って動き始めるのと同じ要領で(これはガオウ復活や鏡石と同列のファンタジーギミック)、モフルンも一時的にイレギュラー的な介入ができたんじゃないのかな。意思がないと思われていた存在が意思を持つという点で、ムジナとモフルンは実は同じだったりするので、何気に綺麗にまとまるぜ!(?)

 

ちなみにMAHO本編ラストでは、はーちゃんが若返りの魔法をみらリコに対して使っており、やってることは闇の魔法と一緒に見えるものの、当の本人はいちごメロンパンに込められた当時の思い出をベースにして実現させた現象と説明しており、謎理論にも程があるが一応ルールを守った魔法と解釈することもできる。

最終的に何が言いたいかというと、映画内で起こせた一般魔法による現象には必ずベースとなる何かが必要であり、無から有レベルの現象が引き起こせないというMAHO本編内の設定やテーマはちゃんと守られていたということだ。そこに疑念を抱かせなかったのは本当に良かったと感じる。

 

また、その上でMAHO本編では出来なかった描写を、ゲームというある種は何でもありの世界で実現させていたのも興味深い。モフルン自身が一般魔法を行使するシーンが当てはまり、これは(記憶の限りだと)今まで描かれなかった初の描写のはず。自信ないけど初だよね?レアなのは間違いない。

実際のところ、MAHOの世界観では魔法エネルギーへのお願いを安定させるために必要と思われる「杖」さえあれば誰でも一般魔法自体は行使できるはずなのだが(主人公のみらいがまさにその例)、モフルンはその杖がないのでゲームで擬似的にそこを覆したのが、現実世界での「願い」をタヌキングダムで再現しようとするムジナやナツキの行動と重なる部分もあって、意味のある客演度が高まっていたと思うんですよね。関係ないけど風船割られた時のモブタヌキ達の表情が揃いに揃って可愛い…。

 

 

そんなこんなでヒーローガールズもMAHOガールズも約束された地・横浜みなとみらいに集結し、物語は佳境を迎える。何か妙に見覚えのありすぎる赤レンガで戦い始めた時点で声を上げてしまったが、これまた見覚えのありすぎる観覧車と海沿いのロケーションが映って「横浜を何だと思ってるんだよ!!!!!!!!!!!」ってツッコんだよね。作品跨いでプリキュアを大集結させるに便利な舞台だと思われてない?????????????????東映特撮の採石場並みのカジュアルさでドンパチして良い場所じゃないんだが?????????????????????やっぱこれ単独映画じゃなくてAS映画じゃねーか!!!!!!!!!!

でもアニマルタウンって海沿いにある町なので、プリキュアの走行なら行ける程度の距離に横浜があるのは地理的に妙な納得感があるんですよね。そんなところで整合性取られても困るな!!!!!!?????

 

いやでも………アガっちまったよ………………ヒーローガールズとMAHOガールズのアバレによ………………。

わんぷり組が緊急時を除いて動物ベースの存在に殴る蹴るをしない方針なので、その辺が違う2作品はどうやってサポートをするのかと思ったが、普通に物理で攻撃だった………が、暴走したムジナ本人ではなく彼が放った謎のエネルギー体が相手だったので全然問題なかった。わんぷりは暴力が存在しない世界ではないので延長線上として違和感はないし、2作品の戦闘方針を否定しない方向で落とし込んでくれたのが嬉しい。

 

その上でガシガシ激しいアクションだけじゃなくて、ソラまし&みらリコの感情コンビ同士、エルちゃん&はーちゃんの赤ちゃん妖精同士*8の共闘や合体技まで魅せてくれる………"幻想"じゃねえよな…!?

思い返してください………ひろプリとまほプリはめっちゃ共通点が多い作品同士なんですよ…。異世界の生まれ同士のミーツ&ミーツ………擬似家族…………別れに重ねる別れ………何ならひろプリ側が20周年ネタの流れでMAHOを明らかに踏襲しまくった回もありましたよね………。

そして挙げまくったこれらの共通点、わんぷりも同じなんですよ。飼い主とペットはガオウ達が疑問を抱く通り本来は繋がらないはずの別の種族同士で「出会い」なんですよ。それが血の繋がってない家族となり大切なパートナーにもなるんですよ。生物である以上は当然、その先に避けられない「別れ」もあるはずなんですよ。

で、これを突き詰めると映画内の何に繋がるかというと、やっぱりタヌキングダムが作られた目的と、それを利用して寿命差によるあらゆる別れを阻止しようとするムジナになるわけです。おかしい………現行作単独映画の70分尺の中に2作品とかいうふざけた数の客演なのにわりと綺麗に入ってるなこれ!!!????!!!?????

 

 

書いてて思ったけど、そういえばわんぷりチームって映画の主役なのに映画に求められるような激しいアクションそんなあるわけではなかったですね…。そりゃ激しいアクションをする方針ではないから至極当然なのだけど…。だからこそ…だからこそ、それができる客演が必要だったということなのか………?そうなのか………!?

なので仮に客演に関してビジネスの匂いが隠せてなさすぎるぜ!だとしても、扱い方に意味を出来るだけ持たせたりするところは、昔から変わらず安心して見れたし普通にアガれてしまった…。あんなん魅せられたらなァ!!!!????もうちょっとシリーズを信頼して良いと思うんだけど、各作品への執着が強すぎて情緒不安定になってしまう…。

 

そしてこれらの客演を繋ぐ要素としての「ゲーム」なんすよね…。違う世界、違う物語、違う種族、そもそも作品が違う………動物で言うなら通じる言語が異なっていても心は繋がっている。

まほプリは離れた世界を「願い」や「言葉」で繋げる作品だし、ひろプリは世界が離れていても繋がっている心を信じながら前に進む作品だし、それはタヌちゃんとナツキの関係性、タヌキングダムというある種の異世界でも示している。

同じ「願い」「言葉」「離れている世界」を扱っているわんぷりという作品に接続するにあたって丁寧に要素を配置しており、生と死で離れた存在との繋がり方や向き合い方を描く映画として申し分のない客演バランスだったのではないだろうか。ナツキに向かって大人数でゾロゾロ集まる絵面は、混沌すぎて面白さが勝ってしまうのは何とかして欲しいのだが。

 

でも最後の喋れる妖精&動物集団に対するナツキの反応、タヌキングダムで実現したかった世界は案外、実証として身近にあるし、タヌちゃん本人かどうかわからないムジナの言ってたことではなく、タヌちゃん自身の気持ちはナツキが信じている・感じていることと相違はないはずだよ、という希望を示す感じで良かったよね。

これまんま動物園で幼少時のいろはがゾウのさくらに対して感じたことや、動物に対する姿勢のルーツと同じなんですね。

 

「言葉がなくても」という話は客演のMAHOのテーマの否定に繋がりそうな見方もあるかもしれないけど(願いを言葉にする重要性、そしてそれが魔法→奇跡になるというギミックのため)、言葉ってあくまで人間が認知できるコミュニケーションの一種でしかないわけで、動物視点での「言葉」の概念は人間のそれとは異なるから「言葉がなくても」気持ちが伝わるという意味だろうし、ゲームを通して人間が認知できる「言葉」に変換されているのは変わらないので、ちゃんとMAHOの世界観のギミックを損ねてるわけではない。

正確には「言葉以外にも気持ちを伝える手段はある」という話を映画ではしているのだが、MAHOが行っている「言葉」を通したギミックも配置することで、逆説的にわんぷりの世界観における「願いの成就」のギミックとの違いを際立たせてるとも言えるだろう。フワフワしている考察材料を少しでも明確化するにあたって非常に重要なポイント。

 

ひろプリに関しても、知らないことを知ることで広がり繋がる世界、背景がわからなくても怖くても眼の前で泣いている存在をほっとけねえよなァ!?の話を、タヌキングダムを通して俯瞰するソラまし達で描いてたわけなので、ちょっとこれも色々書きたいことが多いんだけどMAHOの記述に尺取りすぎて冗長に冗長を重ねかねないので、言いたいことは去年の俺が書いたFに何もかも破壊された記事やカバトンさんへの感謝記事を見てください(放棄)

 

とにかく、そういう意味でも客演の扱い方としては特に違和感を抱かない、納得の行く映画だったと思います。でもこの形態の単独映画ってまたやるつもりなんだろうか…?観る前の気持ちまでを考えると、デパプリみたいに完全単独映画+短編で過去作要素を補完が一番安心できるかな…という感じは正直あるし、そもそも過去作コラボに割いてた尺は他の然るべき要素(他の然るべき要素)に回せたかもしれないし…?

 

www.magika4.com

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◆ウサギ共よ

…さて、この映画に関して色々語ってきて既に約14,000字に到達してるにも関わらず、不自然なぐらいに触れなかった他の然るべき要素がありますよね。まだ終わってないの酷すぎる。

この映画においては内外問わず話題になった、とんでもないサプライズ要素。そしてサプライズのはずなのに公式が映画のビジネス的な記録のために(そればっか擦るな)我慢できずに公開当日の正午にお漏らししてしまったであろう何か…。

 

 

この映画でやってる内容の流れで、ああいう形で急に挟む感じじゃなかったよね????????????????いや確かに観る前から絶対何かある!!!!!!って期待はしてたけどさぁ!!!!!?????

 

いやね………ゲームパートで「そういえばポスタービジュアルにいた大福、全然出てこないな…」とはならなかったよ。普通にムジナとナツキの背景が気になりすぎて完全に大福の存在が抜け落ちてた。

完全に不意を喰らいましたよ。ムジナと揉めてる時に背後の扉から聞き慣れない声が既存キャラみてえな空気感で急に出てくるもん。「えっ、誰……?」「誰だ………」「んん………???まだ姿が見えないが………」「………えっ」「もしかしてそういうこと………?は………???」「完全に忘れてた…そういえば………嘘だろ………」「アッ~~~~~~~~~~!!!!!!??????????!!!!!!????」が10秒ぐらいの中で脳内に駆け巡ったと思う。走馬灯とかの僅かな時間の中で時間が止まる感じ、アレ実在する感覚なんですね…。

 

いや確かに…こむぎの通訳を通したキャラ付け的に大福はイケオジみてえな感じなんじゃねえかな~~~~ギャハハwwwwwみたいな予想は視聴者間であったけどさ~~~~~~~~~~~~~~~~本当にそのまんまで来るヤツがいるかバカ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!イケオジってか声優インタビューにある通り、兄貴分みたいなイメージだけど…そうなんだけど………!

 

バカがよ………お前そんなの急に挟まれてムジナとナツキの話に集中できるわけねえだろ!!!!!!!!!!!!!ノイズがすごすぎるわ!!!!!!!!!!!!

大福が喋り始めてから、ずっと見た目に合わなさすぎる中村悠一の声が脳の中で反芻しまくるし、気を切り替えようとしても大福が喋る度に再びそういう状態に陥る…。大福と話せて嬉しそうな兎山というエモ描写がインパクトに上塗りされ、どういう気持ちで見れば良いのかマジでわからなかった…いやマジで…。

 

ついでにカプ厨だし、まゆと何か微妙に被ってる気がする!!!!!!!!動物と話せるようになったことが必ずしも良い方向だけに行くとは限らない、わんぷりのテーマ性!!!!!!!お前は果たして耐えられるかこの試練に…兎山ァ!!!!

あと、いろは達をサポートしに行ったぜみたいな感じだったけど、ムジナの風船を不意打ちで割った以外は大きな活躍なかった気もするし、何かそれっぽい正論で横からムジナ達を論破しまくるみたいな描写が目立ってたせいで(言ってることは普通にまとも)若干のダサさが滲み出たの何かアレだったぞ!!!!!!!フレンディに抱えられて逃げるシーンを見るに空回り感は若干意識してそうだが…。

 

タヌキングダムラストの「人間になれるのか!?」→「なれないんかい!」で落胆させてからの、現実世界に戻ったら本当に人間になっとる!!!!!??????人間態かわいい!!!!!!けど中村悠一の声で喋ってる!!!!!混乱!!!!!!!からの横浜決戦時の唐突な兎山との変身!!!!!!!!アレも何だったんだよ!!!!!!!!!!!変身バンクも何も挟まずにウィングが横浜市民を助けに突っ込んだら(?)急にアレになったし変身後の名前も明かされてないから困惑しかねーよ!!!!!!!!!!!???????

 

そんなこんなで色々あってエンディング迎えたけど、兎組の突然すぎる描写がまだ脳から離れない…。3作品とナツキがワチャワチャしてるどう考えてもそれだけでいくらでも語れそうなはずのエンディングに集中できなかった…。

キャスト欄の大福のCVを確認して、余計に何か関係なさそうな微妙な感情がグルグルしとる…。フォロワー数人と一緒に映画を観に行ったんだが、鑑賞後は絶対これだった。

©2024 わんだふるぷりきゅあ!ざ・むーびー!製作委員会 ©ABC-A・東映アニメーション

 

………この映画はあくまでムジナとナツキ、タヌキングダムを中心にしているので、実のところ兎組のサプライズ描写をそのまま飲み込ませるような余裕は元からないに等しい。

例えばMAHOのキュアモフルン(映画)はタイトルにもなっている通り、あくまで(熊だけに)モフルンが主役の映画であり、ゲストキャラを中心にした話だったとしてもモフルンもメインに殴ってくる感じだったので、キュアモフルンへの変身が物語の山場として機能しているのだ。

 

わんぷりの映画は………その辺はやはり異なるだろうし、鑑賞前から懸念があった部分だ。それでも…それでも蓋を開けてみれば良い感じになっていることを信じて………観に行ったわけです。冒頭で「見えてる地雷」と書いてて、まさにその通りだったわけだが…。

実際は兎組で何かをやるぞという仕込みは序盤の現実パート内の僅かな描写のみに留まっており、ゲームパートは普通に大福の存在を忘れる程度にはペット達やムジナとナツキの話や謎にフォーカスされていたため、それは映画の物語として良かったと思う同時に、兎組に起きる奇跡というメチャンコ美味しい展開を大々的に表現するには前振りが不十分とも思ってしまった…正直やはり…。

 

何よりムジナが拉致したプリキュア達を巡って背景や目的を真面目に示唆しようとしているというタイミングで、ギャグの空気感で登場する大福はそれどころじゃないみたいな水を差された感覚はあり、やはり咀嚼するのが難しかった。まぁそういう感覚より混乱と驚愕と「真実(マジ)かよ大福クン…!?」の苦笑が先に来るので、水を差されているという感覚すら二の次の衝撃度なんですけど…。

 

しかもゲームパートだけじゃなくて、全ての因果が収束する終盤の横浜決戦中でも兎組が何のアレも挟まずに突然変身するじゃないですか。「は!!!!!!!!!!??????????」の次に「えっ、待ってこれプリキュア!!???プリキュアなの????!!!???それとも番外戦士寄りの別パターン!!!!???」「兎山おめえメガネ外すんじゃねえ!!!!!!!!???!!!」が来るじゃないですか。ごめんメガネは相対的にどうでも良いわ。とにかくそれらが気になって集中できるわけないんですよ。

 

この辺のね、どこを山場に据えてるのとか、それに至らせるまでにどう材料を敷いてたのとか、観客の気持ちをどこに向けさせたいのかとか、その辺のバランスに関しては上手くできていたとは俺は言えないと思う、この映画。この感情とか諸々はマジで心からそう感じてしまったので、どうあがいても否定できないんですよ。

 

 

いやでも兎組で何がやりたかったのか、それ自体はわかる。

兎山はTV本編の時点でプリキュア達を助けられない自分の無力さに嘆いていたし*9プリキュア達が行っているように大福と会話をしたい憧れの描写も僅かながらあった。その「願い」をまとめて具現化する舞台として、この映画が使われているように見える。

 

MAHO客演による補完が非常にわかりやすい通り、願いの成就と言葉の違った方式・ギミックを取り扱う上で、タヌキングダムはゲームの世界という形で兎山と大福間の会話を実現させた。わんぷり本編の要素だけでは至らなかった願いをナツキが目的通りに(ムジナも間接的に)擬似的に再現したのだ。

この願いの主体が兎組のどちらなのかは明言されていないが、仮に大福が本気で兎山と話したいなら動物の願いを勝手に叶えているとされる鏡石がとっくのとうに作用していると考える方が自然なので、これは恐らく人間の兎山側であろう。タヌキングダムを作ったナツキも人間なので、その方が綺麗に収まるところもある。*10

 

言葉による会話が実現した次の段階は「人間になりたいという願い」である。これは大福が明確に期待の意志を示していたので、動物の大福側の願いだろうか。ムジナが人間を釣るために用意していたのか、それとも単にゲームプログラムで実現できる範疇ではなかっただけなのか、それはわからないが、タヌキングダムの終局にある聖杯願いの成就システムは大福の人間化を実現させることは結局できなかった。

にも関わらず、現実世界に戻った大福は本当に人間になれていた。実際に描写された諸々を踏まえればの話だが、タヌキングダムにはそういう機能はないはずである。憶測に憶測を重ねて申し訳ないのだが、これは恐らく鏡石が作用した結果なのではないだろうか。

 

動物の願いに対して鏡石が作用するタイミングはTV本編の実際にあった描写を踏まえるのであれば、少なくとも動物が人間との関わり合いに関して何かを成し遂げたいと強く想った瞬間、というのが最低ラインとして存在するはず。*11タヌキングダムに入るまでは薄っすらとあった大福の願い(鏡石発動のトリガーにはならないレベルの薄さ)が、ゲームでの明確な願いの「言語化」や成就プログラムへの落胆を通して強い形になった結果、鏡石が大福のそれを本当に実現させたのでは?

 

さらに横浜決戦で起きた兎組の「変身」といった奇跡も………わかりやすく犬組と猫組が変身したきっかけと同じである。兎山の大福と会話したいという細やかな願い、大福のさまざまな方面で兎山達の力になりたいという膨れ上がる願い、それらがタヌキングダムに大事な人達が閉じ込められる騒動を通して「確かな言葉」「強い想い」となり、願いの実際の成就に繋がるという流れだ。

 

▲「どうしたら悟の望みが叶うか、かな」はそういうことじゃん?

 

何回も何回も書いているのでわかると思うが、客演のMAHO本編における「願い」を「言葉」に…「言葉」が「魔法」になり「奇跡」に繋がるのと同じギミックすぎる。言葉を発せられない動物の願いをメインにしながら、言葉を発するための舞台を用意してるんですよ…。

そしてこれは人間側であるナツキと動物側であるムジナがそれぞれで行えるギミックが掛け合わさった結果の「奇跡」でもあるのだ。人と動物の繋がりを描くわんぷりという作品において、兎組のサプライズ変身にはそこまでの重要性が込められているように俺は感じる。それはそうと映画の尺だと突然すぎる。

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実際のところ、兎組がプリキュアになるかどうかはわんぷり本編が始まった当初から視聴者が強く関心を寄せていた部分であり、制作側も明らかにそれを前提にした作品内外の展開を行っていたように思える。その関心の種を一気に爆発させられる絶好の舞台として、十分な描写を重ねないことを選んでまで今回の映画が据えられてるようにしか見えないのは、ぶっちゃけ劇場に足を運ばせるビジネス的な意図が強いのだろう。

なお、既に脚注で補足している通り、商業作品の映画なのだからビジネスなのは当たり前であり、いくらそこの匂いが隠せてねえ!と感じていてもその是非を深堀りするつもりはない。オトナプリキュアSDGs描写と同様に方針へのお気持ちでしかないので…。*12なので、この描写配置の意図について別途で書きたい。

 

・映画だけでお披露目するなら普通は大々的に描くであろう変身バンクがない
・変身後の名前すら明かされない
・「変身した」という記述のみに留めており、そもそもプリキュアなのかどうか、デパプリに登場するブラペのような番外戦士なのかすらわからない
・変身後のビジュアルを使用したキャラクター紹介でも頑なに「兎山大福」「兎山悟」としか書かれてない
・平日中の仕事を終えて劇場に向かう人すらガン無視で映画公開当日の正午に、別に映画のネタバレじゃないが?w気になるなら早く劇場に足を運んでくれよな~wみたいなノリで爆速情報解禁
・人間化大福&変身後ビジュアルの兎組が常設グッズみたいなノリで販売開始、そして新規グッズ予告がされている上に「特別な姿」というぼかすような表現
・映画内では一時的な奇跡とは言われておらず、大福が再び人間になれなくなったみたいな描写も確認できない
・変身するとメガネが外れるプリキュアの法則を踏襲している*13

 

………色々不自然すぎませんか?????考えすぎだろって言われるかもしれないけど、いやそういう疑念が拭い切れないレベルでは??????

別に映画限定で登場するプリキュアなら最初から劇中内でそう言えば良いし、プリキュアとして扱わないなら犬組や猫組と同じ流れとギミックで変身する必要も今は感じられない。キュアワッフルの時とは違うのだ…。

 

つまるところ、俺が言いたいのは兎組これ映画限定のアレじゃなくて、ひょっとして………正式な追加戦士のプリキュアとしてTV本編の方でも出そうとしてる………!?

前作ひろプリで言えば、キュアマジェスティの立ち位置…時期的にもありえない話ではない。それに現行作の男性プリキュアとしては春日部在住の嵐を呼ぶ5歳児とそのペットはプリキュアになれたのに…wとか擦られずに済む。いや別にそこはどうでも良いな…。

 

なんかこう………プリキュア公式の本来のノリとしては、追加戦士の正体や詳細情報を物語の進行に関係なく数週間前に公開しちゃうのと同じというか、そういうアレを兎組に感じるんですよね。来週とか再来週あたりにTV本編で大福がいきなり中村悠一の声帯を持ち始めても全くおかしくない。もしそうなら諸々の不自然な部分の辻褄がわりと合ってくるので、ますます…。

仮にそうだとして映画での追加戦士の先行変身は恐らくシリーズ初になりかけるのではないだろうか。というかこの流れ、直近でお隣さんで見たことあるなァ!!!????仮面ライダーガッチャード×ギーツの冬映画におけるマジェードだ!!!!!2号ライダーへの先行変身!!!!!オーマイガッチャ!!!!!!!関係ない作品の話を持ち出してすいません!!!!!!!!続けます!!!!!!!!!!

 

そう、そう考えると何か色々腑に落ちる。腑に落ちるっていうか、このプリキュアの映画でありながら内外問わない展開に対して感じる謎のプリキュア映画じゃなっぽさ………そのまんまライダー映画のライブ感、瞬瞬必生だ!!!!!!!!!!!本当か??????????

TV本編のテーマや要素を踏襲した話にするのはライダー夏映画っぽいし、この先の本編の展開へのワクワク感や示唆をリアルタイムで劇場に足を運ぶファンにノリで届けてくる感じはライダー冬映画っぽい………劇場に足を運んでない公然のネタバレを既に知っている後追い視聴者が「?」ってなるヤツ!!!!!!身に覚えがありすぎる!!!!!!!

横浜といういつもの採石場に過去作の戦士達と集結してドンパチするのも春映画だ。なんてこった、わんぷり映画はライダー映画複合概念だった!!!!!!んなわけあるか!!!!!!!!!!一歩間違えれば失礼な気もしてくる。

 

いやでも…20年以上もシリーズが続いて追加戦士の登場に新鮮味がなくなった今………男性プリキュアプリキュアオールスターズの一員として出すことに大きな壁がなくなった今………ファンや子供達にどういった謎への導線&驚きを感じてもらえるのか、プリキュアシリーズの根底である「既存概念の破壊」を如何にして継続できるのか、そしてそれらを商業的な実績に果たして繋げられるのか………もちろん悪い意味じゃなくて愛されているシリーズをこの先も広げていくためにですよ?

そこを突き詰めていくと、兎組でやったような今回のような形式に行き着きませんか?????????兎山の自身に対する劣等感や不甲斐なさがマジで真面目な方面で切実すぎるので、やっぱこういう形で消化されたりプリキュア公式もそういうことするんだ…という複雑な気持ちがあるんですけど、よくよく考えてみるとお隣のライダーで何回も通った「シリーズとしての成功の道」のような気もしてくる。

事実、爆速情報解禁のSNS上の数字は類を見ない程の記録になってるので、目論見としては成功してると言って良いだろう。筆者もSNSでの情報と数字を扱う仕事をしていたので、この反響の可能性がよくわかる。俺みたいにネタバレに怯える人からしたら迷惑な話ではあるが!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!いやでもネタバレ回避で観に行ったからこそ混乱したとも言えるのか…?俺はよ………。

 

てか書いてて思ったんですけど、衝撃に話題が引っ張られまくってキャラクターやその回の本来の主題が「それどころじゃねえ!!!!!!!!」とどっか行っちゃう感じ、HUGのキュアアンフィニ登場の流れと似てるんだよなこれ…。歴史は繰り返す………なんということだプリキュアでも既に通った道だったのかもしれない。

 

とにかく兎組の扱い方、それが映画に与える影響(鑑賞中のノイズなど)については意図がわかるというか納得できる部分もあれば、もうちょっと他の形で見たかった…という複雑な気持ちは確かにあるということを書きたかった。

何か色々書きましたけど、これで別に「兎組の変身は特に理由を明かさないし、本編で改めて扱うこともない映画限定の要素ですよw」だったらどうしよう…。そうなったら普通に「アレなんだったん?」「この場面で兎組はあの時みたいに変身せんの?」というモヤモヤをTV本編で抱えて生きることになるので、プリキュアシリーズはそんなことはしないと信じたいが…。経験則として、こういう懸念はわりと杞憂で終わらないことの方が多いからな。マジで頼みましたぜ?

ていうかTV本編ではガルガルやガオガオーンと相対する度に兎山の劣等感だけ重ねて、大福はその場に居合わせてないことの方が多い………つまり大福をトリガーにした願いの成就のタイミングが遅れるように調整してるように見えるので、俺やっぱそういうことだと思ってるんだけどな~~~~~どう??????知らんがな。

 

 

◆最後に俺が感極まったところを書きたい

例によって記事が長すぎてすいませんマジで…。

ゲームパートの会話とかギャグのテンポ感が加藤さん(脚本担当)っぽいな~とか、ダンスができないと煽られたユキの「そんなわけ…ないじゃない!」がアイカツ(初代は加藤脚本)だな~とか、宮谷さん(アイカツで活躍)が手掛けたナツキのビジュアルがパッと見だとオトナ霧矢で穏やかじゃない!な~とか、そういう話もしたいんですがキリがなさすぎて穏やかじゃないので、そういうのは便所の落書きに書くべきですかね…てかもう映画公開前から書いてる。

 

記事では軽く触れていたものの、あんま深堀りしてなかった話があるので最後に書きたくて…「人と動物の寿命差」なんですけど…。ムジナのそもそもの動機や、飼い主との概念的な別離(孤独)の第1話から始まったこむぎの強い意志にも関わる要素…。

これTV本編だとOPラストの夕焼けの歌詞でそれっぽい感じがあるだけで、全然触れられてなかった要素のはずなんですよ。なので、こむぎが飼い主と一緒にいたい!早く助けに行く!まではわかるし当然なんですけど、その後にムジナに「じゃあ飼い主と一緒に寿命の概念がないこの世界で暮らせ」って言われたら理屈上は反論がし辛いはずなので(TV本編では提起すらしてない)、これ結構ムジナ側としては強力なカードだったと思うんですよね。

 

ただ、実際はバグ空間のシーンになるまでムジナがゲーム世界の特殊な性質は明かさないし、ナツキもタヌちゃんの存在を説明する流れではなかったので、そもそもムジナがどうしてこんなことをしてるのかという背景、孤独という概念に立ち向かうこむぎはどういう意図で対比的な配置をされているのか、わりと映画の軸の大半がわからないまま寿命差について示唆する物語の山場に到達してしまっていた感は否めない。

バグ空間から脱出するためにこむぎが階段を駆け上るシーンが演出上は山場として設定されているのは明白なのだが、ノイズがすごい大福のことも加わり、脳内に渦巻く疑問がまだ然るべき感情に達していなかったのが残念ではあった。どちらかというと背景がある程度は明かされた最後の山場を横浜決戦に据えていたんだろうか。こっちもこっちで客演と兎組でそれどころじゃないんだけど。

 

それでも…それでも、ムジナがようやくタヌちゃんに連なるルーツの示唆と、タヌキングダムが寿命の問題を解決できる世界であることをこむぎに明かし、その上でこむぎがいろはと同じ歩調で年を重ねることを宣言するシーンは………泣くしかないだろ!!!!!!!!!!!!!!!!

………近年のプリキュアシリーズの特徴として、子供だったプリキュアの数年後(下手したら数十年後)を最終的に描いたり、仲間内でも異種族間の違いをベースにしたりする話が増えてきているように感じる。ただ、その両軸を混ぜた展開を実際に行った作品はそんなに思いつかない。強いて挙げるなら、必ず来たる別れ(死)を示唆しつつ異種族間の寿命差を間接的に主題に組み込んでいるトロプリぐらいだろうか。間接的ってかメインのプリキュア以外の人達で普通にそれで起きている悲しみを描いてるな…。

そのトロプリも別に異種族間の寿命差について明言しているわけではないのは、シリーズが今を生きる子供達に向けた物だからだろう。というかトロプリはまさにそのバランス自体がテーマの作品でもある。

 

しかし思い返してみると、プリキュアシリーズにおける「異種族」とは実のところファンタジー的な存在が大半を占めている。つまり、仮に寿命差や別離を描くにしても、それは設定から作られる概念となり、先に挙げたトロプリで言えば人間より遥かに永く生きる長寿種の人魚や魔女といった創作的な存在が当てはまる。

わんぷりにおいてはどうなのか。そう、ここに当てはまるのは紛れもなく実在する「動物」という存在。そして作品上でメインで扱われており、家庭によっては子供達にとっても身近な犬や猫の寿命は飼い主となる人間のそれより遥かに短く、作中のキャラクターも、それを見ている我々も、遠くない未来に必ず対峙することになる問題なのだ。

 

ネタバレになるので具体的にどの作品なのかとかは挙げないが近年のTVシリーズやオトナプリキュアのように、明確にプリキュア達の将来その物を描いている作品が珍しくなくなっている今、わんぷりもそういう方向性の展開や続編が顕れる可能性は否定できない。そうなってくると、奇跡の力で異常現象が起きているとはいえ種族上は普通の動物であるこむぎやユキ達は果たしてどうなってしまうのか、視聴者間でも気になっている空気感は少なからずあったと思う。

が、別にTV本編でこの辺の話をやる流れは見えてこない。動物の死で言えばガオウ達はそうなのだが、寿命とは全く別の話なので「後天的な孤独化」という要素以外で繋げられる余地もない。*14

 

 

それでも…それでも、いろは達との日常を謳歌するこむぎを散々見せつけられたら………近い内に訪れるであろう別れは気になるじゃないですか。

そこでムジナの大元の背景が明かされ、散らかっていた疑問が一気に真っ直ぐな糸となる爆発力。そして、それに対するこむぎが出す率直な答え………こむぎはとても純粋………どうしてそんな純粋なんだ………そりゃそうなんよ………こむぎはただ…ただただにいろはのことが好きな動物………。

動物だから人間の考える現実的な話やリアリティなんてわからない………わからないけど、それでも純粋な「願い」だけがひたすらそこにある………だからこそ本来はありえない「奇跡」がTV本編の第1話で実際に起きたのだ。

その奇跡を経験したこむぎが唱える「いろはと一緒におばあちゃんにだってなってなる!」に、余計な水を差せるわけがない………。

 

ムジナだって本当は願い自体は純粋で無邪気なはずなんですよ………ルーツがタヌちゃん本人だとしたら同じ動物ですよ。それでも現実的なタイムリミットが訪れている可能性は否定できない。こむぎ達と同じ立場でありながら、それらとは違って「奇跡」が起きなかった存在。そしてそれは当然、作品を見る者にとって愛する存在にも必ず訪れるという現実がある。

わんぷりは(少なくとも動物にそこまで詳しくない俺目線ではあるが)動物描写にすごく真面目な作品だ。動物、そして愛玩用のペットという題材は子供にフィットし楽しそうに見えて、実のところはすごくセンシティブで扱いを誤れば多くの不幸や問題を生み出しかねない。現実として愛玩動物が人間と「家族」でいられるのは、あくまで動物が人間の従属にあるからであって、それに伴う生命の管理への責任だって人間が一方的に決めた概念にすぎないだろう。

 

その上でこの作品は動物を擬人化、つまり人間と同じ立場や目線にすることで生ずる「楽しさ」だけではなく「問題点」も描く。動物に詳しい兎山悟というキャラクターを通して動物への興味、そして動物への思いやりに繋がる種も撒いている。

そして動物に接する上で避けられない「人間の一方的なエゴ」は作中で扱うことは避けようと思えばできるはずなのに、人間の行動がきっかけで絶滅したニホンオオカミという存在を通して深入りしようと試みている。大胆すぎる挑戦だが、動物を扱うからには逃げられる部分から逃げないという意思が感じられるのだ。

今回の映画においても「必ず訪れる動物との別れ」という現実的な話は決して無視しませんよという部分を、作品がこれまでに築き上げた人と動物の関係性の描写をもって強調してくれたことに感謝を捧げたい。

 

わんぷりの単独映画を冠した作品としては明らかに情報を詰め込めすぎ+ぼかしている根幹部分が致命的というマイナス部分は拭えないものの、わんぷりのテーマを際立たせるには意外と必要な客演要素のバランス、追加戦士(…だよな?)の新たな魅せ方、そして映画内で本来は完結できそうなこれらの要素を最大限にTV本編と連動させる形は(…だよな?)新たな位置付けのプリキュア映画と言え、シリーズの新しい可能性に繋がっているだろう。…だよな?

事実、これまでのプリキュア映画はTV本編のテーマを踏襲することはあっても、TV本編の物語からは切り離された単体の物が中心だった。今回の映画も一見するとタヌキングダムなどはTV本編にないオリジナルの要素に思えるが、最大限TV本編の流れに沿った主題に兎組のような要素を絡ませ、間接的な繋がりを強調していることが目新しい。これマジで兎組の変身がTV本編で扱われなかったら全部破綻するんだけど!?

 

それはそうと、記事を書いてる最中に2回目の鑑賞をしたんですけど、流石に2回目はノイズになるレベルで多く挟まれる情報量に惑わされずに落ち着いて鑑賞できたし、鑑賞中はずっと泣いてた。本当に多すぎる情報(販促とも言う)の配置の仕方がアレなだけで、わんぷりの映画として出来ることは最大限やってるんですよね………。

さすが無印アイカツなどで俺をズタボロにした加藤さん(脚本家)である。プリキュアは初挑戦ということを考えると、わんぷりだけではなく過去作の要素も上手い具合に扱えてることにむしろ想像以上の驚きがあったし、子供向けの作品としての絵の楽しさも決して忘れない………これまでの実績を考えれば当然ではあるが。

アイカツ妖怪ウォッチといった加藤さんがメインで関わった作品を啜ってきた人間としては、ぜひ加藤さんが担当するプリキュアTVシリーズも見てみたい物である。実際これまでの実績的にも、あるかないかで言ったら滅茶苦茶ある寄りの話だと思うんですよね。おしゃもじを変身アイテムに持ち替えようぜ!

 

脱線がまた続く前に終わらせます。長すぎ。読んでくださって本当にありがとうございました、いやマジで…。

最後に気になることが一つ………兎山が遊んでたタヌキングダムってSteam版?クロスプラットフォームプレイ対応なの??????

 

 

◆やっぱムジナのルーツがわかんねえよ!(この項目だけ読めば良い)

記事が終わると言ったな、あれは嘘だ。終わってません。お前いい加減にしろよ。

ムジナのルーツについて色々な解釈ができるし解釈次第で大幅にテーマ性が変わっちゃうよな…でもわかんないな…というところを踏まえて、2回目の鑑賞時点で改めて整理を試みていた。まだこの話終わってへんの!?と思われるのは重々承知なのだが、許して欲しい…。

 

材料として重要そうだなと新たに気付いた描写として、最初に作ったアバターに関してはナツキが「想いを込めてプログラムした」という趣旨の発言をしていることがまず気になった。

あくまでナツキ主観の話であって実際の理由とは異なるかもしれないが、これはナツキのタヌちゃんへの悔恨が、何らかの超常的な理由(例えば鏡石とか)でAIのような形で自律的に動き出した………そしてそれを鎮めることこそナツキのタヌちゃんへの向き合い方の決着である、という解釈が想定できる。この場合はタヌちゃんの生死は問わなくなるし、タヌちゃんのタヌキングダムへの介入はないということになる。

つまるところ、一連の騒動の主体は「ナツキ」であり、この映画は「人間→動物」の話ということで、もちろん方向性やドラマとして実際に明言されているナツキの感情がベースになってることからも裏付けが取りやすい。タヌちゃんの考えてたことは誰にもわからない中で、ナツキのそれは明確。

ただ、やはり同じ話を繰り返すことになってしまうが、強くて純粋な想いがトリガーとなる「願いの成就」を主軸にした本作で、ナツキの「願い」がそういうレベルで描写されていたかと言われると、かなり怪しい。それにナツキはタヌキングダムという形で願いを自ら擬似的に実現させている人物であり、ムジナという存在を単体で成立させるにはきっかけと作用力が弱く感じる。

横浜決戦においてもナツキが暴走ムジナに会いに行くというよりは、ムジナがナツキに会いに行く(そしてナツキがそれを受け止める)方向性が徹底されていた。わんぷりという作品がガルガルやガオガオーンを通して描いていることも挙げるのなら、動物(もちろん作中で種として存在する実際の動物のこと)の苦しむ気持ちを考えて向き合う部分を重視していると考える方が自然か。人間のナツキが自身その物に向き合うという話自体は俺も部分的に合ってるとは思うが(ここ重要!)、そこを主軸にするのはわんぷりの主題から外れやすいと感じる。

よって「想いを込めてプログラムした」はナツキが最初のアバターに込めた思い入れと背景を示唆するための表現であり、それ以上の物はないのでは?と考えている。

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材料として、もう一つ気になった点。最後のタヌちゃんそっくりのタヌキは他の仲間(2匹)とともに登場しているのだが、この2匹、よく見たらジャルジャルそっくりである。

というか明らかに「ムジナ with ポンタ&ポコタ」を意識した3匹なのだが、一体どういうことなのだろうか…。実際の設定は置いといても、この演出意図がわからない…!確実なのはナツキはタヌちゃんと違ってこのタヌキ2匹のことは全く知らないはずなので、ナツキとゲームの方のジャルジャルに直接的な繋がりがなさそうだということなのだが…。

………ムジナの出自がわからね~~~wwwwwみたいな話を散々してきたが、よくよく考えてみると一番よくわからないのはジャルジャルということに気付いてしまった。真面目に深堀りする必要があるのかもしれない。なんでジャルジャルを真剣に考えないといけないんだ。

で、色々考えてみたのだが、ムジナとジャルジャルの関係性にどうも既視感のような引っ掛かりを感じた。配下や眷属のような2つの存在を出向かせる親分………そう………「ガオウ with トラメ&ザクロ」では。たまたまとかじゃないなら(たまたまな気もするけど…)じゃあタヌちゃんはナツキと会えなくなった後、仲間のタヌキ2匹と出会って、近い時系列で老衰死。人との絆への執着が特に強かったムジナに引っ張られる形で他2匹も何らかのNPCタヌキを介して復活&変貌した的な…。

「うらやまタヌ~」はムジナの意志を代弁してるだけかと思ってたが、飼い主の元へ必死に駆け上がるこむぎを最終的に応援してたので、ムジナの執着(生前に聞かされてそう)に対して思うところが色々あったと考えることもできる。

ただ、これ根拠となる描写も何やら何まで何もないところから捻り出した推測だし、ちょっと概念的すぎるかな…。むしろ最後に登場したタヌちゃんそっくりのタヌキはムジナの転生体であり(プリキュアではよくあること)、ムジナの眷属のようなジャルジャルも一緒に転生してナツキの前に姿を現したと考えた方が矛盾しないかもしれない。暴走ムジナの浄化後にナツキが「また遊ぼう」とムジナに対して「願いから連なる言葉」を発している点も加えると、この方が映画的には綺麗に収まる。だってこの瞬間のナツキの「願い」は間違いなく成就が作用するレベルの強い想いじゃないですか…。

もちろん転生体ではない、そっくりなタヌキ達という従来の考え方でも作品の伝えたいことが損なわれるわけではないと思う。そもそも無から実在動物が発生するのは、わんぷりらしくないと言えばらしくないし…。

 

 

なお「最後に出てきたタヌキ、普通に実は生きてたタヌちゃん本人じゃないの?」は、俺はやっぱ違うってことにしたいかなぁ…というアレはやっぱ拭えない。

ナツキのCVのざーさんによると、ナツキの年齢感はいろは達と同じぐらいらしいので、タヌキの平均寿命的にはギリギリ生存している可能性は確かに否定できない………のだが、仮に当時のタヌちゃんが幼獣だったとして数年後の成獣時代と描き分けがされていないのは動物描写に真面目なわんぷりらしくはない。

そして映画冒頭の現実世界に顕現したジャルジャルがわざわざ本物の成獣タヌキのような形態を披露していることから、タヌちゃん達がデフォルメ表現で小さくされているということも考えにくい…………………という主張を通す前にタヌキの成長過程について調べてみたら見た目としての幼獣期間は半年以内に終わってすぐに成獣と見分けが付かなくなるらしい。じゃあ本当にタヌちゃん本人かもしれん。だとしたらゲームのジャルジャルはどっから来てどこへ行くんだよ!!!!!君の謎はぼくたちの夢さ~~~じゃなくて最大の謎すぎるわ!!!!!!!

 

なんというか全てを矛盾なく配置しようとすると、

・3匹は普通に今でも生存してる(=最後の最後に登場したのは紛れもなくタヌちゃん本人+α)
・タヌちゃんグループはどうしてもナツキのような動物を愛してくれる人間に会いたくて、その強い「願い」が鏡石のような成就ギミックに反応
・同じタイミングでナツキの願いが擬似的に再現されたタヌキングダムやアバターという「器」がリリースされる
・3匹の魂の"複製体"のような念"だけ"が「器」に引き込まれ、人と動物の繋がりを意識したAIプログラムを介して自律→暴走→成仏ジャルジャルはなんか巻き込まれた
・ナツキの中で「また遊びたい」という強い願いと言葉が露出する
・わんぷり組の誘いに導かれる形で、アニマルタウンに移住してたっぽい3匹と本当に出会えたぜ!わんぷり組と出会うきっかけになったタヌキングダム自体がそもそもナツキ制作だし、つまりナツキがムジナとともに自身の手で願いを本当の意味で成就させたことにもなるぜ!

………という感じになるのも想定できる。みんな思ってるだろうから俺も言うけど、ここに書かれてること明言されてませんからね全部。でもぼかしてる部分が本当に多すぎて困る!!!!!ので、もう考えるの大変だからこれで良いですかね!!!!!????

 

いや…だとしても…だとしてもだよ?こむぎの「いろはと一緒におばあちゃんになる!」という純粋で非現実的な願いと、寿命差を意識した現実的な話とのコントラストが………薄まっちゃう気はするんですよね、これだと…。わざわざ兎山に「あのアバターはもう戻らない」というニュアンスで補足させた上でムジナというプログラムを成仏させる意味もなくなってしまう。ムジナを浄化したら暴走部分だけ取り除いてタヌキングダムにそのまま戻す、その上でアニマルタウンでタヌちゃん本人とも再会できる完全ハッピーエンドで良いじゃないですか、ぶっちゃけ本来は。

暴走ムジナを成仏させるビターな展開にした意味を突き詰めたら、やっぱりそれはわんぷり本編、そして現実に存在する動物と壁に向き合う姿勢を踏襲した作りです!の方が俺は信じたい気持ちが強いし、わんぷりの映画としては真摯だと思う。ナツキが想っているタヌちゃん、そしてナツキを想うタヌちゃんが既に亡くなっているという話になっちゃうから残酷なのはわかってるけど、そんなこと言ったらTV本編のオオカミ達の方もアレで今更だし…。

なので、わんぷりの映画として見るのであれば、俺としてはやっぱタヌちゃんの死に向き合ったナツキに対してちょっとした奇跡と新たな出会い(最後のはタヌちゃん達とそっくりの個体)が最後に訪れた、ということにするのが一番綺麗かなぁ…という気持ち。何よりジャルジャルに似た仲間の2匹の配置にも強い意味を見出す………のであれば、タヌちゃんだけではない「みんなで作り、みんなで一緒に遊べる」ナツキにとってのタヌキングダムの制作過程と存在意義、そしてナツキに最終的に生じた「また遊びたい」という強い言葉と願いの新たな結果として納得の行きやすい物になるのではないだろうか。何遍でも書きますけど、ハッキリとは存在しなさすぎる根拠からの希望的憶測です。

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本当に…本当に難しくて、色々なパターンや可能性を考えて…そして苦しめる映画である。実際のところ、制作側としても別にギチギチの答えを提示したいわけではなく、深く考えずに自由な解釈を広く取れるようにしている節を感じる。だがやっぱ自分の中で映画の構成への納得を突き詰めようとすると、こうなってしまう…!!!!

逆に言えばセンシティブ寄りの題材でもある動物を扱う上で、メインとなる動物の本当の気持ちや意図、実際の背景やルーツをあえて明言しないのは、一周回って動物という存在に真摯とも言える。だって俺達は人間であって動物の気持ちが全部わかるわけないので。

気持ちがわからない…対話ができない…そんな存在だからこそ我々は動物が何を思っているのか、どうやったら共に幸せに生きれるのか、答えのない命題に対して真剣に考え続けることが大事だし、そんなことができるのは高度な知能と社会を持った"人間という動物"の特権でもある。「人間は動物の気持ちが全部わかるわけではない」と書いたが、この中の「動物」には「人間」も含まれており、つまり人間も人間の気持ちが全部わかるわけではないので、動物の気持ちを考えることは人間の気持ちを考えるのと同義とも言える。

明言しないことを開き直りや描写不足と捉えることも出来るだろうし、我々はお金を払って商業作品を観に来てるわけなので、そこにケチを付けること自体はそんな悪いことではないと思っている。ただ、俺はこの映画に関しては「疑問に対して考えて、自分なりの答えやケジメを付ける」こと自体がやりたかったんじゃないかという解釈であり、それは人間側の主役とも言えるナツキが「タヌキングダムの制作」や「暴走したムジナを受け止める」一連の描写を通して行っていたことと重なるのではないだろうか。

 

TV本編が始まってしばらく…もう半年前のことだが、当時の俺がこんなことを言ってたのを思い出した。このツイートには続きがありスレッド上に書いてるので、それも後で見ていただきたい。自分で言うのもなんだが、映画に対して言いたいこととしてはわりと的を得てるのではないだろうか。

わんぷりは動物描写に真摯!とは言ったものの、そもそもペットの動物に喋らせてる時点で実はそこから外れかけている。わりと難しいバランスで成り立ってる作品なのだが………。こんなことに一々ツッコんでたら、どういった作品や描写なら楽しめるの?という当たり前の話になってしまうので、ある程度は割り切る必要が出てきてしまう。*15

それでも「動物が喋れるようになったからって良いことばかり起きるわけではない」というコミュニケーションの本来の難しさを強調する作りにしているし、今はオオカミを通してその方向性でより難しい話をしようとしている。だからこそ面白い。

 

つまり、映画に新しく登場したタヌちゃんという動物に関してルーツや感情を直接明言しないことこそ、わんぷりという作品を踏襲した作りでもあり、はたまた作品を補完する作りでもあるのだ。情報量の多さによるノイズは置いといて(何回言うんだよ)視聴者など外部の存在にとっての「して欲しいこと」は二の次で、登場キャラクターの"今"考えることを重視するプリキュアらしい良い映画だと思う。

TV本編でも答えを出すことが難しい命題が進んでいるが、描写についてわからないことがあったら、この映画に対して綴ったことを思い出したい。恐らく既に自分で納得の行く答えを出しているかもしれない。まとめ方こんな感じで良い?今度こそ終わります。重ねて感謝と謝罪を申し上げます。

 

(33,031字、今まで書いた記事で間違いなくトップ of 長い)

 

~追記…というか補足~

 

見出しのジャルジャルの出自も含めて、疑問が自分の中では全部片付いた感じはあるので、それをまたまた長文で書いてます。合ってるかは知らんけどな。

 

▲スタッフトーク付き上映会の感想とか所感も

 


*1:誤解なきように言っておくと筆者はMAHOガールズにもヒーローガールズにも特別な想いを抱えております。過去の記事を見てね。

*2:エンディングが終了した最後の最後でムジナと同一個体かのようなタヌキがナツキ達の前に現れるが、ゲーム内のムジナの言動や目的とは明確に矛盾するため、ムジナの子供 or たまたま似ている個体と考えるのが自然だろう。

*3:事実、映画内ではタヌちゃんの実際の気持ちは明言されていない一方で、ナツキの気持ちは明言されているため、ドラマとしてはナツキの向き合い方が中心になっている。

*4:当たり前だが幼少時のナツキが公園に起きたことを止められるはずがないし、ナツキ自身もそれはわかっているはずだ。

*5:俺はオールスターズFは内面的にはひろプリの映画だったと思う。

*6:何回も注釈入れるけど筆者にとってまほプリは、人生観や人格を変えられてしまった位置付けの作品です。

*7:ヒープリ映画の5GoGoも、トロプリ映画のハトキャも人気とかビジネスとか全然隠せてないけど、扱うからにはちゃんと映画の内容と出来るだけ絡めていたとは思います。そもそも元から販促で成り立ってるシリーズなので、それ自体は今更だし…。

*8:何気にFのウィングチーム繋がりでもあり、Fのその後感がある空気感が地味に嬉しい…。

*9:いや動物の知識面でめっちゃ力になってるだろ!!!!!!というツッコミは視聴者全員がすると思うが、大事なのはプリキュアの力も含めて成し遂げられるかどうかの本人の納得である。

*10:鏡石は実のところ動物だけではなく人間の願いも叶えている描写があるのだが、動物主体の言い伝えとどういう描写の違いがあるのか、演出が矛盾してね?人間も動物じゃね?みたいな曖昧さや不明点がまだ多いので一旦置いておく。

*11:死したオオカミの復活………映画の要素にも範囲を広げるならムジナの行動や結果自体も鏡石が実は関係してないか…?と筆者は疑っている。

*12:局の意向と思われる方針がノイズだったのはともかく、内容やその構成方法は丁寧の極みであり、大きな不満は抱えていない。余計な脚注多いなこの記事。

*13:ワンダフルネットプリキュア?知らない子達ですね…。

*14:この辺はオトナプリキュアも、雪城邸での存在が確認できない忠太郎(飼い犬)でサラッと似たような方向性の描写があるにはあるが…。

*15:ただ、いろは→こむぎ、まゆ→ユキの最初の出会いや絆を深め合えた経緯も別に最初から言語でコミュニケーションを取れたからではなく、非言語コミュニケーションで成立したという現実に即した関係性だということが強調されている。