はい、第1弾の感想はこちら。当ブログを開設して最初の感想記事がまさにこれだったわけで、もう1年経つのかと感慨深いですね、色々。そうか、もう1年経ったのか…そうか…。
で、第2弾は2020年10月10日(土)の夜公演を観に行きました。初回の公演ですね一応。チケットは発売開始して、すぐ買いました。
なお、舞台チャー研の公式略称(?)は「チャー研ステ」なんですが、個人的にこの響きに違和感を感じてしまっている人なので、この記事ではやっぱ非公式略称の「チャージカル」で通します。よろしく。もう公式もチャージカルで良くない?(押し付け)
チャージカルギリギリ到着した。 pic.twitter.com/qCMU0XEtbU
— koichil (@koichil) 2020年10月10日
会場も一緒だし、全体の流れやノリ、研が何故か4人いたり、前半パートは撮影&SNS共有OKな点も含めて、大体が第1弾と一緒だし、面白かった部分もつまらなかった部分も大体似てるので、今回の感想記事ではそこら辺はほぼ割愛します。さっき貼った第1弾の感想記事を見てね。
ただ前回の感想記事に付け加えるとしたらなんですけど、まず書いておきたいことがあって、自分が『チャージマン研!』の一ファンとしてチャージカルに対してどういう認識、思いなのかという部分。
チャージカルって原作の『チャージマン研!』という作品自体を舞台化した物だとは思ってないんですよね、俺は。この舞台が元にしているのは「チャー研」というミーム。わかり辛いですけど、チャー研という作品がネット上で流行することで、ファンの間にできた認識(「研が鬼畜ヒーロー」みたいな実際の本編とはかけ離れた誇張表現など)やアレコレ、MADといった二次創作を指しています。
まず第1弾の時点で俺がチャージカルで想定していたのは、『チャージマン研!』という作品を舞台ナイズした物。だが、実際は違かった。その時の困惑は第1弾の感想記事を見てもらえばわかるだろう。
で、後から冷静になって振り返ってみると、チャージカルはやってることが物語性のあるチャー研MADなどに非常に近い。人気のキャラクターや素材を切り貼りしたり、原作の描写を誇張したり、独自のストーリーを展開したり、時には流行りのパロネタ(チャー研関係なくても)を入れるあたりがそうだ。
つまり、チャージカルは『チャージマン研!』という作品自体への愛や理解度が高い程、拒否反応が強くなりやすい代物になってしまっている。事実として、あのノリに怒りを感じ第2弾はもう見ないと決めたフォロワーも何人かいる。正直それは理解できる。だってファンメイドと割り切れるMADとかと違って『チャージマン研!』という作品を使って曲がりなりにも商業展開してるわけだし*1、版権元のICHIから許諾を得た作品であるから、公式の物語や設定なんだと、最悪『チャージマン研!』という作品への不必要な誤解を与えかねない。
実を言えば俺もチャージカルに対しては、同じように思うところがないわけではない。一応、ニコニコ動画の第一次ブーム(10年以上前)からずっとチャー研を追ってる身なので尚更だ。総合的には楽しませてもらったが、それとはまた別の話になる。
というわけで、全肯定はしないものの、チャージカルはあくまで『チャージマン研!』果てはそれで広がったネットミームを原作とした「公認作品」「公式二次創作」「公式MAD」的な認識で、俺は第2弾に挑んだというところを、まずは伝えたいし、感想もそれを踏まえた物になる。よりわかりやすい表現をするならチャージカルは「公式アンソロジー」だろう。
舞台に携わる方々の愛や熱意は我々が想定していた物とは違うかもしれないが、本物だというのは変わらないと思うし尊重する。しかし、そういう認識の上で観劇しないと、とてもじゃないが俺は耐えられないかもしれない、と思ったのが正直なところだ。
『チャージマン研!』はボルガ回に代表されるような超展開や、精神病院回のような当時の危うい倫理観がよく取り上げられ人気になっている。そして、それが今のネット上でのチャー研の評価だし、ミームであるのは紛れもない事実だろう。
だが、この原典の真の魅力は、正統派なヒーロー物という設定や世界観、物語を展開する上で*2、約5分という尺の奇怪なペース配分だったり、独特なテンポ感にあると考えている。事実として、チャー研は全編にわたって超展開や倫理観の危うい展開があるわけではない。むしろそこを求めて視聴してしまうと、地味に感じてしまう回も数え切れないアニメなのだ。
だが、チャージカルはそれを舞台にはあまり落とし込んでいない。これは当然で、まず舞台を観に来ているのはチャー研ファンだけではないし、仮にクソ真面目にチャー研本編のその真の魅力を舞台上で再現すると、ひどくつまらない物になるのは想像に難くない。コメント付きでワイワイとみんなでツッコミながら見るアニメと、基本的に自分一人で静かに反芻しながら観劇する舞台とでは、媒体が違いすぎるし、求められるものも違うのだ。
だから、人によっては生意気に映るかもしれないが、俺はチャージカルのこの方向性に理解を示すし、必要以上の怒りも感じない。まぁそれと好みはまた別の話なので、純粋にそれを理解した上で好まないチャー研ファンがいるのも理解するし、その方々を糾弾する意図もないのはわかって欲しい。むしろ「チャー研なんかに何でそんな熱くなってるの?」と考えている人達には、その思った以上にチャー研というコンテンツに対して真面目に考えてる人達の存在を認識して欲しいんですね。諸々「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」案件だったらごめんなさい。
というわけで、前置きが滅茶苦茶長くなってしまったが(この時点で2000文字ぐらい)(マジで長いよアホ)、そういう観点でチャージカルを観てたんだな、というバ カの感想というのを踏まえてご覧下さい。
『チャージマン研!』コロナじゃないかあ!合作
僕が勝手に考えたチャージカル第2弾のタイトルです。全然間違ってないと思う。
さてまず観劇前に僕が一番気になった点が一つあった。非常にシンプルだ。
「コロナ禍で無理に舞台やる必要ある??????????」
一応俺は仕事で新型コロナ関連のニュースを毎日目に焼き付ける立場にあるのでハッキリ言えるのだが、舞台関連クラスターもたくさん出てるこのご時世に、演者との距離もかなり近い舞台をやる事自体が中々リスキーだと常々思ってたのだ。
そりゃチャージカル第1弾が大成功に終わり、第2弾をやってくれること自体はとても嬉しい。チャー研というコンテンツも盛り上がるだろう。
でも、万が一…あまり考えたくない話だが、このチャージカル第2弾で感染者出たら…まぁ普通に嫌だよね。「ジュラル星人の回りくどい作戦だw」と茶化す人もいるかもしれないが、チャー研に限らずどの作品ファンでも、自分の好きな作品でそういう事態が起きたら怖すぎる。
「じゃあ会場行かないでニコ生でチャージカル見りゃ良いだろお前も」と言われたらそれはそうなんですけど、いややっぱここは生で見たい欲望が勝ってしまったので…。
それでも、リスクを冒してまで何故チャージカル第2弾の開演に踏み切ったのか。踏み切ってしまったのか。まぁ結構気になったわけですよ、はい。まぁ観終わった後は「あぁ、リスクとかそんなの関係なく、今じゃないと出来ないからだったのか…」と妙な納得感が湧いてしまったわけだが…。
それもそのはず、チャージカル第2弾はストーリーのほとんどが「コロナ」という未知のウイルスに対して研達とジュラル星人が挑む内容だったのだ。小ネタ程度に新型コロナについて触れるのかなと思いきや、まさか核になってるとは思ってなかった。副題の「コロナに負けるNA!」は伊達ではないのよね。
アルファガンは消毒スプレーに変わってるし、登場人物はみんなフェイスシールド付けてるし、アイアン星はコロナウイルスに差し替えられている。オマケにミュージカル要素の楽曲はキチレコのメロディに合わせて、ソーシャルディスタンスを推奨する内容になっている。*3
ぶっちゃけ、『チャージマン研!』と新型コロナの間には何の関連性もないので、よく考えたらそれを主軸にするのは意味がわからないのだが、アレなんだろうか。第1弾と全く同じ展開じゃアレだし、どう差別化するかという議題の上で、ある意味では現在、全人類が共通で知っているネタなので採用された感じなんだろうか。
そして、ライブ感が重視される舞台において「新型コロナ」というネタをやれるのは猛威を奮っている今しかないので、むしろ逆にコロナ禍の今じゃないと決行できないって感じ…?
さらに言えば「新型コロナ」を物語に組み込みたいとなると、これが許される作品はある意味では『チャージマン研!』しかない。他の作品でこんな事やったら大バッシングどころじゃない。いや『チャージマン研!』からしても、とんだ迷惑だとは思いますが…。
加えるならば、犠牲者といった実害も出ている新型コロナを、チャー研とはいえこんなオモチャにして良いのかという疑問も残るのだが、まぁよく考えたら原典の精神病院回とかも倫理観が取り沙汰されるアレなので、そういう意味ではチャー研で同じようにタブー気味な新型コロナを取り扱うという行為は原典へのリスペクトなのかもしれない(絶対脚本の人そこまで考えてないだろ!)
なので再三言うが、チャージカルの原作は『チャージマン研!』という作品自体ではなく、「チャー研というミーム」なのだ。本来なら許されない支離滅裂な展開を出来てしまうのは確かに、これしかないのかもしれない。
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最早、『チャージマン研!』の舞台ではない
何度も何度も繰り返し言うが、チャージカルはチャー研というミームを舞台化した作品だ。第2弾は第1弾よりそれが顕著になっている。
本来であれば、1話限りのゲストキャラであるボルガ博士や星君が、全く関係ないエピソードに介入してることからもそれが伺い知れるし、ボルガ博士に至っては文字通り、完全に爆弾扱いだ。
フォロワーも言ってたのだが、このキャラクターの切り貼りとした扱い方は完全にチャー研MADの文脈。パートが分かれるのもそうだし、全然原作に沿った展開ではない。だからこそ「『チャージマン研!』コロナじゃないかあ!合作」としか言いようがないのだ…!
パロネタ
まず中の人ネタは舞台ならではだと思うので、別に思うところは…ないと言ったら嘘になるけどまぁわかるよ。これもまぁある意味メタフィクショナルな作品やチャー研じゃないと許されないところはあるのかもな…。
僕は舞台ファンでも何でもなく、演者の方でよく知ってるのは、特撮経由の魔王演じる村上幸平のみなので、ザリガリネタだけ理解は出来たがわからない人には本当にわからないので、どうなんでしょうねこういうの…。
さて、第1弾では唐突に1曲丸々使っておそ松さんパートが始まったチャージカルだが(今思い返してもアレなんなんだったんだ…)、開演当初から描写に謎の違和感があった。
まず、第1弾でも登場していたアルファガンなどを使わず抜刀してジュラル星人を斬り倒していく通称「チャージマン剣」、本来なら4人の研のうち、一人しか帯刀してなかったはずなのだが、第2弾では何故か4人全員が剣を持つ事に。
第1弾チャージカルがチャー研を原作にしたのであれば、第2弾は第1弾を原作にしてるとは言うが、まさにそれだったのだろうか…?とすっげえ悪ノリしてんなと思いつつ、観劇を続行。
第1弾でも述べたが、キャロンは相変わらずとても可愛い。男性が演じてるんですよねこれ…。でもそれ以上に頭から離れないのが、何故かこのキャロンが「チクワ推し」な部分。
キャロンに何か食べ物を推させるなら野菜とかじゃないの!?何故原作に1mmも登場しないチクワ推しなんだ…と思ったら中盤で理由が判明。
キャロン「チクワを横からかじっちゃお!」
竈門キャロン pic.twitter.com/MBVIBTWtaG
— kenta | ⭐️🌙10/15まで3日 (@ikina_rhythm) 2020年10月10日
鬼滅パロやりたかっただけかよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
研「泉の呼吸!壱の型!(抜刀しながら)」
いい加減にしろよ!!!!!!!!!!!!!!!!?????
そういう事かよ!!!!!!!!!????あーはいはい!!!!!抜刀も何もかも全部鬼滅パロやるために入れた描写なのね!!!!はい!!!!納得しました!!!!!うん!!!!!まぁ鬼滅大人気だもんね!!!!!!はいはいわかる!!!!!コロナと同様、観劇してる人達大体がわかるネタだもんな!!!!!うんうん、すごい納得したよ。いやだからなんでだよ!!!!!!!!!???????
いやその、僕は納得できて笑ったから良いんだけど、あのですね。パロネタっていうのは、わからない人からしたらとことんつまらないネタなので、かなり使用には気をつけないといけないんですよ?いや、第1弾の1曲丸々使ったおそ松さんパロよりは控え目だし、有名な鬼滅だから良いだろと言いたいかもだけど、後で聞いたら鬼滅知らなくて理解できてなかったフォロワーもいたからね普通に!!!!!!
まぁ脚本書いてる時にどうしても鬼滅ネタ入れたかったんですよね…はいわかりますよ。僕も一応MAD動画とかクリエイティブなアレはやるから、視聴者とかのことをガン無視で入れたいネタがどうしてもある!ってのはすごいわかるんですよ、はい。俺も経験あります。すごくあります。いやでもさ、一応チャー研はパロネタなくても面白さを出せる作品だと思うからさ…うん、そういうことなんですねハイ!
チャージマンドリームシステムのパート
チャージカルの特徴(特徴しかないのでは)と言っても良いシステムで、第1弾の時から俺も中々おもしろい試みだと思ったヤツ。簡単に言うと、演者全員(もちろんジュラルなども含む)の中から投票で次のチャージマン研役を選ぶというシステムで、これもまさにチャー研じゃないと許されない新たな舞台の形だろうか。
俺が観に行った公演で選ばれたのは、星君役の方でした。「憧れていたんだ、チャージマン研に」という、奇跡的に原典の台詞とシステムがマッチした台詞には、ちょっと感動しましたね。
で、舞台で再現されるエピソードは待ちにまった「これから毎日家を焼こうぜ?」で人気の『雄一少年を救え!』。
草加生える pic.twitter.com/ITkj7MwC4i
— koichil (@koichil) 2020年10月10日
雄一の母親をジュラルの魔王が演じてたのは普通に面白かったですね。この役者はこのキャラだけ演じる!という概念が全くないチャージカルならではのギャグ。
公演前半と打って変わって、これと星君がチャージマン研を演じてること以外は、『チャージマン研!』という作品を元に概ねかなり高い再現度でしたね。で、ぼく改めて気づいちゃったんですけど、やっぱチャー研って本編を生真面目に舞台に再現しようとすると、普通につまらないんですよね。各キャラクターのコスチュームとかの再現度には「おお!」とはなるけど、本当にそれだけ。
なので、チャー研本編自体の再現度を求めてる方には悪いのだが、僕はやっぱチャージカルは前半パートみたいな滅茶苦茶なMADなヤツの方が合ってると思う。これが絶対の正解だとは言えないけど。
雄一少年を救ってあげたい構図 pic.twitter.com/RHoxJy91fE
— koichil (@koichil) 2020年10月10日
研が4人のせいで奇怪なことになってる絵は楽しいです。
で、これが終わった後に「これがチャー研を忠実に再現した舞台だ!(意訳)」とか言ってチャー研本編垂れ流しパートが始まるんですが、冷静に考えたらめっちゃ卑怯ですよねこれ。前半はあんなに原典のゲの字もない再現度なのに、このチャージマンドリームシステムのパートだけピンポイントで原典再現度を高めてるので「どの口が言ってるの!!!???!!??」とツッコミしかできませんでした…(いや卑怯極まりなさすぎて、笑っちゃいましたけど)
はい、とまぁ、チャージカル第2弾を観て思ったことを、わりと遠慮なく書き殴ってみました。わかりますかね、相変わらずどうしようもないんですよ、この舞台。
でもね、やっぱチャー研ひいては、そこから派生したアレコレじゃないと出来ない表現やシステムってのはあって、舞台に携わった方々はちゃんとそれを舞台上で実現させてるんですね。俺からすればもうその時点で加点はいくらでも出来るわけです。
もちろん純粋な(?)チャー研ファンからしたら、こういった使われ方に納得が行くかどうかってのはまた別問題になるし、全然それは理解できるんですが。
で、結局言いたい事は、第1弾の感想記事の最後「総評、チャー研というIPのこれから」で全部なので、特にこれ以上言う事はないです。
あるかどうかはわからないけど、第3弾がもしあるなら、観に行きますよ。
公演はありがたいことにニコ生でも配信されてるようなので、興味のある方はいかがだろうか。タイムシフト予約しておけば、いつでも見れるし、10月18日までの全公演があるっぽいっすね。相変わらず太っ腹だし、これで普通に業績的にも成功してるであろうってのがすごい。
誰が何を言おうが、やっぱ現状はこういうノリが正解なんでしょうね。ちょっとはコアなチャー研ファンにも色々目を向けて欲しいけど、ほとんどのチャー研を支持してる層はそうじゃないので、まぁうん。
相変わらず、観劇に力を入れすぎだなぁとは思うけど、正しく「批評」ができた記事だとは思います(本当か?いやできてないな…)
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